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2008年11月11日

銀座のマエストロ

ときどきジャズライブに行く。
とくに、心理的にタイトな仕事が何日もつづいた土曜の夜など、
ビリビリした神経の火照りをおさめるには、酒など飲むより
ピアノやベースの快いリズムに心身をゆだねるのが
私にとってはいちばんの処方である。

18歳の頃だっただろうか、
新宿の「ラセーヌ」という喫茶店(今はもうないが)に連れてゆかれ、
そこで初めて、スリーピィの名で、すでに世界的名声を得ていた松本英彦のナマ演奏に接した。
珈琲が一杯千円であった。
なにしろ千円あれば、学生ならなんとか十日間は食いつなげるという時代の千円なのである。
しかし、スリーピィが奏でるテナーサックスの圧倒的な迫力は、未熟な少年だった
私の感覚のあらゆる場所をはげしく揺すぶった。

同じ頃だと思うが、銀座のジャズライブに、若い気鋭のピアニストがいた。
私の記憶では、真紅のジャケットを羽織っていたように思う。

天才ピアニスト前田憲男である。

ちょっと尖った印象のある貴公子然とした前田さんの風貌と
いかにも繊細な長い指から繰り出される
自在なピアノの響きも、地方から出てきた少年の心をとらえるに十分であった。

数年後に、11PMやミュージックフェアで、活躍し始めた前田さんのピアノや独特の洒脱なトークというのを残念ながら私はほとんど見ても聴いてもいない。
貧しい学生である私の三畳間の下宿にはテレビなどなかったからである。

だから、ジャズ好きの友人に銀座のライブハウスに誘われたときの第一声が
「え!前田憲男ってまだ生きてるのかい!?」
であった。
まことに失礼な話だが...。

考えてみれば、こうした天才プレイヤーというのは、ずいぶん早い時期から活躍してるわけだから、第一線の生活が長くても、私らの年齢とそうはちがわないのである。

アレンジャーとしての前田さんは、それこそあらゆる分野で名曲を産み出している。
前田憲男の編曲でない分野を探し出すほうが難しいくらいである。

その、功成り名を遂げた前田さんが、依然としてジャズライブでピアノを聴かせてくれる。それも客のリクエストに応じながら、である。
むろんカザルスホールやサントリーホールなどでのリサイタルも素晴しいが、
やはりジャズはウイスキーやワインを舐めながら狭いクラブで聴くのが似合っている。
特に前田さんのピアノはシラフでタキシードをまとって聴くよりは、
狭苦しいスペースで少しほろ酔い加減で、ときには手拍子を打ちながら
聴くのが楽しいのである。

そもそも、前田さん自身が、かなりな程度きこしめして演奏している。
休憩時間に、いかにもうまそうに飲んでいるのは、きまって日本酒である。
それも、徳利に触っただけで火傷してしまいそうな熱燗なのだ。
このときばかりは実に上機嫌である。
ルーツが土佐の人だそうだから、お酒はめっぽう強いんだろう。

演奏のさなか、
ベースやドラムのソロが始まると両手をそろえてうなだれてしまう。
眠ってしまったのかな、と心配しているのだが、
ポイントに来るといちだんときわだった演奏が始まる。
魔術師のように優美な指が鍵盤いっぱいに踊りまわる。
なんとも実にスリリングなのである。

Mac The Knife とLast Rose of Summerのリクエストをたくみに組み合わせて
アレンジしながら、まったく異なる曲想の音楽にしてしまう名人芸に、客はすっかり酔ってしまう。
「ひまわり」がいつの間にか「五木の子守唄」とのあいだを行きつ戻りつしたりするのも楽しい。

一度いたずら心でリクエストカードにHeartbreak Hotelと書いてみた。
それを拾い上げた前田さん、「こりゃ無理だよなあ」と言った直後、
「タタタタン、タタンター!」と奇声を張り上げ、
「以上プレスリーでした」

いたずら心にはいたずら心で応じる巨匠の心根がなんとも嬉しいのである。

先日、朝日新聞の「おやじのせなか」というコラムの中で、幼いころに亡くなられた父上のことについて語っていた。
前田さんの父上というのは、ベートーベンの「月光」をこよなく愛された方らしく、亡くなる直前にもずっと聴いておられたという。
何をしても怒られなかったのに、レコードを円盤代わりに投げて遊んだときだけはひどく叱られたんだそうである。
その叱り方も、
「お前はレコードの扱い方をわかってない」
という妙なものであったそうだ。
前田さんの軽妙洒脱な会話のセンスはおそらく、この父上のDNAなのであろう。
彼はライブの際も、次の曲にうつるときによくこの「月光」を
プロムナードのようにさりげなく弾いてくれる。

もしかしたらこうした中で、父上に鎮魂歌を捧げているのだろうか、などと
つまらぬことを考えるのは俗物のセンチメンタリズムで、この巨匠はあくまで
春風駘蕩たる自然体である。

前田さんが、ビッグなプレイヤーの揃ったWE3やWind Breakersなどのバンドをリードしている姿は、絵になる。
まさに絵になるのである。

前田さんが、ライブでの演奏にこだわるのは、
もしかすると
客とのやりとりから生まれる、みずみずしい「現場感覚」を
いつまでも持ち続けていたいと考えているからなのだろうか。
考えてみれば音楽という芸術は、
モーツアルトの昔からそういうものではある。

私は、私の人生を、豊かで彩りあるものにしてくれるこの巨匠を、
ひそかに「銀座のマエストロ」と呼んで
ひととき、贅沢な時間をすごさせていただいているのである。