2008年09月03日
わたしの海
萩の海は菊ヶ浜である。
すぐ隣に越ヶ浜という大きな海浜があるが、私にとっての萩の海といえば
愛くるしいと言ってもいいほどにこじんまりとした菊ヶ浜の海辺である。
浜のすぐ左手向かいに指月山が見える。
そのてっぺんが指月城址である。
この城は一度も干戈を交えることなく、明治維新とともに取り壊された。
そういえば「そうせい候」と言われた藩主毛利敬親候は、この城が壊されたあとどこに住まわれたものであろう。
幕末の四賢候と呼ばれる殿様がいた。
薩摩の島津斉彬、越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、土佐の山内容堂である。
それぞれがその名にふさわしい英明の藩主として時代をリードしたと言われている。
私は少年時代、これら英邁の藩主にくらべて、自分の育った土地の殿様が、
「そうせい候」などと呼ばれ、バカ殿の典型のように書かれることが、あまり愉快ではなかった。
「そうせい候」とは言うまでもなく、配下の者に何かを具申されたとき、
きまって「うん、そうせい」と応じたことからこう呼ばれたというのである。
たしかに、明治維新の中核になった藩の殿様はほとんど例外なく英邁の誉れが高い。
時代がそれを求めたのであろう。
上の四賢候にこそ名を連ねていないが、肥前(佐賀)の殿様、鍋島閑叟などは当時ヨーロッパでもプロシャ(ドイツ)に一台しかなかった鋼鉄のアームストロング砲を
自力で二台も造り上げ、維新の表舞台に一気に躍り出たことで知られている。
しかるにひとりわが毛利候だけが「そうせい候」なのである。
彼が藩主になった前後の長州藩というのは、お家騒動が続き、藩主が次々に暗殺されたという噂がある。
敬親公も、一旦藩主になってすぐに退隠し、また返り咲いている。
このときに、側近から「命を守るために愚昧をよそおうように」と吹き込まれたものではないか、という説がある。
よくある話だし、むろん真偽は明らかではない。
ほんとうに愚昧であったのかも知れぬ。
ただ、密航を企てた吉田松陰を幕府に内緒でかくまったり、藩の正規軍ではない高杉晋作の奇兵隊を陰に陽に援助したり、身分にかかわらずいろんな人と直接会ったり、という話を読むと、どうもただものではなかったのではないかと、つい身びいきで思ってしまう。
二度の長州征伐で追いつめられたとき、高杉が
「いよいよとなれば、敬親公をかついで上海まで逃げていく」
と言い放ったというが、豪胆な高杉にそう言わせるような何かがこの藩主にあったのではないだろうか。
考えてみれば「そうせい候」と言われて平然としているというのは普通のことではないような気がする。
菊ヶ浜の沿岸には、砲台を据えた台場がある。
家老が藩主の前に進み出て、
「今年はいかがいたしましょうや」と伺いを立てるのが
長州藩のお城の元旦の行事であったという。
「時期尚早である。自重せよ」
と藩主が応えるのが徳川三百年間の慣習だったそうだ。
つまり中国地方の広大な版図を防長二国に押し込められた関が原以来の徳川家への
怨念がこもった儀式だというのだが、いくら司馬遼太郎さんの話でもこればかりはちと信じがたい。
長州人にそういう怨念の長持ちは似合わないのである。
いや、実際にそうした儀式が存在したのかもしれないが、それが明治維新のエネルギーになった、というのはあまりにうがちすぎだと思う。
第一、徳川家に怨念を持っているとすれば、それは空疎な支配階級となっていた
藩の上層階級ではあっても、維新の中核となった下級武士や農民たちではない。
同じことが薩摩人にも言えるだろうと思う。
日本列島でも、太陽の光がいちだんと強い西国、南国の人々の性格には、
そうした怨念の持久力はないように思うし、どうも似つかわしくないと思えるのだがどうだろう。
やはり明治維新は、幕府の支配が及びにくくなっていた
遠国の自由貿易国家(ひらたく言えば密貿易の自由な藩)から勃然として湧き上がったと考えるほうが自然というものであろう。
二年ほど前、ほとんど半世紀ぶりに、菊ヶ浜の浜辺に立った。
指月城の石垣も、激しい鏃のあとが残る台場も、どこまでも青い海も、私が幼い頃に
遊んだときと少しも変わらぬ貌をみせていた。
江戸に出た大村益次郎が
「長州とはどのようなところですか」と聞かれると
きまって
「空と海の美しいところです」
と答えたそうである。
靖国神社に、飄然と立っている銅像の益次郎も、かまびすしい世間を避けて
周防の空の下に戻りたいのではないだろうか。