2009年09月17日
格闘技考
相撲を「つもりの文化」と書いたところ、
いろいろな方面からご意見をいただいた。
共感した、という方が予想外に多かったのは驚きであったが、
さして深い意味もなく書いていることについて
深遠なる哲学的註釈をつけてくださる方もいらして、ひどく恐縮した。
「相撲」という文化が、いかに深く日本人の心に根づいているかということを
あらためて実感させられた。
ところで、「つもり」とは対極にあるように思える格闘技がボクシングである。
まだ駆け出しの編集者の頃、
月刊学習誌の特集記事の企画で、中学二年生の
ボクシング練習生を取材させてもらったことがある。
代々木にある有名なKボクシングジムで、
世界チャンピオンを何人も輩出したこのジムにはその頃、
かの名トレーナー、エデイ・タウンゼント氏がまだ健在であった。
中学校におけるボクシングは正課ではない。
この少年の場合も、父親がプロボクサー志望だったということで
見果てぬ夢を息子に託したものらしい。
サンドバッグやシャドーボクシングの姿などをみていると
なかなかサマになっている。
なによりその眼光の鋭さは、ひたむきに格闘技に取り組む者に
共通したものである。
拳闘では「つもりの文化」はありえない。
もしあれば、それはまさしく八百長であるから
「つもりの文化」というのは成り立たない。
私自身、高校生の頃に
ボクシング(のようなもの)をやっていたことがある。
アマチュアボクシングでは
大声を上げてあいてを威嚇したり、嘲笑するなどの
非紳士的な態度をとることは、重大な反則行為である。
さすがにこんなことはめったにないが、
ひどいときは審判員が試合を止めて反則負けを宣することができる。
紳士のスポーツなのである。
しかし一方で、
ボクシングをこの世から絶滅させてしまおうという運動が
ヨーロッパを中心にして根強く存在している。
その主張はしごく単純である。
「人間を、打撃によって10秒間意識不明にすることを前提にしたボクシングは
競技として存在すべきではない」
というものである。
格闘技にかぎらず、
あらゆる競技にはその競技が持つ究極の理想の姿というものがある。
野球であれば、打者はすべての打席でヒットか本塁打を打つことであり、
投手なら打者を毎打席三振に切って取ることである。
レスリングではあいての肩をフォールし、
相撲ではあいてを土俵から出すか倒すかすることだ。
しかるにボクシングにおける理想の姿とは何か。
まさに上記の拳闘撲滅論者が言う
「打撃によってあいてを10秒間意識不明にすること」
なのである。
こんな競技はほかにない。
おそらく統計的にみれば、ボクシングが他の競技に比して
格別に死傷事故が多いというわけではないであろう。
にもかかわらず、こうした「撲滅論」が出てくるというのは
この競技がその本質に、「あいてを打ち倒す」という格闘技の究極の
原初的な美の姿を、避けようもないほどに持っているからではないか。
フェンシングや剣道、柔道などの格闘競技も、
初期にはかなり危険な果し合いの要素を持っていたにちがいないが、
スポーツの近代化の流れの中でルールやスタイルが洗練されてきたものであろう。
ところが拳闘だけは、いくらリファインされても、
このノックダウンのルールだけは変えようがなかったのではないか。
ボクシングの美は、このノックダウンの中に収斂して存在する。
シンプルであるがゆえに、その成り立ちからして完成度の高い競技であったのだ。
しかし、考えてみればこうしたデイレンマのようなものは、
どこにでも存在するものだろう。
ひとりボクシングだけが背負わされた十字架ではない。
私は、ボクシング撲滅論者に対して、
ほとんど有効な反論の根拠を持っていないのだが、
それでもときどきは
これらの方々の、いささかおせっかいなヒューマニズムに対して、
やや鬱陶しい困惑を覚えているのである。