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2009年10月14日

匂いの記憶

小学校に入ったばかりのころの話なのだが、
校門を出てまっすぐの大通りを、友達と道草を食いながら帰ってくると
左に折れ曲がる小路で、この時季にはいつも、
ふいに強い香りが鼻を衝いてきた。
「ああ、お家までもうすぐだ」と
条件反射のように思ったものである。

「鼻孔を叩く」と言ったほうがいいのだろうか。
私の記憶にある金木犀は、実に強烈な匂いであった。

幼児期をすごしたその家は、当時でも
百二十年以上もたつというたいそう古びたものであったが、
その庭の門柱近くに植わっていた金木犀の巨木も、
その古い屋敷にふさわしい古木だったと記憶している。
そのとき以降、私はあれほど大きな金木犀をみたことがない。

この黄色い花の強烈な匂いと、私の幼児期の想い出は
ぴったり重なっているのである。
ご多聞にもれず、私もこのごろ日常の些事を
ひどく忘れっぽくなっているのだが、
ふとした拍子にすべてを鮮やかに思い出すことがある。
それが、たいてい春先や秋の、花が咲きそろう時季のことなのである。

今、わが家の庭にも金木犀を二本植えているのだが、
さほどに強烈な香りはない。
ものたりないくらいほのかで淡白なのである。
北総の土壌のせいなのかしらと思う。

あるいは幼児期のやわらかな嗅覚に、あの金木犀は
強烈過ぎたから、いまそう思っているだけなのかもしれない。
嗅覚というのは、いわゆる五感の中では
もっとも疲労しやすい感覚なのだそうだ。
どんなによい香りでもすぐに麻痺して感じなくなってしまう。

たしかに、いい香りならともかく、
いやな臭いがいつまでも鼻腔を刺激し続けていたら、
頭痛がしてくることであろう。
これはおそらく一種の生体保護本能のひとつなのだ。

私には専門的なことはまったくわからないが、
香りと嗅覚の関係というのは、
脳の働きにかなり強い影響があるのではないかと思う。

田宮虎彦に「かるたの記憶」という小品がある。
親にかくれて煙草を吸っていた息子に、あるとき父親は
缶入の高級煙草「エアーシップ」を買ってくる。
それをキュウッと音を立ててあけた息子が、ゆっくりと煙草をくゆらす。
庭に紫煙が漂うのをみながら、父は息子に「うまいか」と何度も尋ねる。
なんの説明もないが、このときに流れるエアーシップの煙と香りが
実に鮮やかに脳裏に浮かんで嗅覚を刺激するのである。
私はこの煙草を吸ったことはない。
しかし父子のあいだに流れる情愛とともにエアーシップの匂いがきわめて正確に
イメージの中で再現されるのだ。

音楽や絵画彫刻などの芸術は
人間の感性を強く揺さぶってくる。
これら聴覚や視覚に訴える芸術作品があるのに
嗅覚に訴える芸術作品をあまりみないのはなぜなんだろう。

しかし、嗅覚と言うのは、聴覚よりも、視覚よりも
もっと直接的に肉体に訴えかけてくる、実に生々しい感覚である。
芸術様式として洗練されるには、あまりにどぎつすぎるのかもしれない。
しかし香合せのような遊びに平安の貴族たちが惑溺せずにいられなかったのは
うつし世のつかのまの陶酔に
宇宙をかいまみたからではなかろうか。

現代のように、生活が複雑怪奇に入り組んでくると、
人間の感覚疲労は頂点に達しているであろう。
最近さかんになってきている芳香族の商品化などは、
忘れっぽい嗅覚に対する警告のような気もするのである。

しかしふと思う、
ゆたかな感性の涵養というのは
幼児期の、母親の匂いと不可分のものではないのかと。

木犀を 母の小言に かさねけり  (指月庵)