2009年11月18日
益子の秋
美術品の鑑賞眼などまったくないが、
どういうものか私は、子どものときから
陶磁器をながめることだけは好きだったようだ。
濱田庄司やバーナード・リーチなどの
コレクション展示会の切符をいただいたので出かけてみた。
秋は、民芸陶器や古美術などを各地で贅沢に観賞できる季節でもある。
濱田庄司といえば、よほど以前のこの時季に
益子を訪れたことを思い出す。
益子にいくには、取手から関東鉄道で下館にいき、そこから真岡線を
使うのだが、この真岡線というのがレールバス(軌条自動車)という
実に不思議な乗りもので、こんな草深いところを走るにしてはひどく
小粋で洒落ているのである。
停車する駅舎のほうは昔ながらの瓦葺き、トタン葺きなので、
そこのところがなんとも不釣合いで奇妙な取り合わせなのだ。
益子駅で自転車を借りて町なかを突っきり、益子参考館を訪ねた。
ここは濱田庄司の仕事場だったところで、出かけてきた目的の
大半はここを見るためなのである。
むろんもう窯は使われていないが、屋敷やのぼり窯もそのままに残されてあり
よく手入れがいきとどいている。
しかし、主なき屋敷というものはいかに気配りがされていても、
生活の匂いがなくうら寂しいものである。
人の息遣いが感じられないのである。
濱田のコレクションは有名だが、なかでも目を惹いたのは、
沖縄の墓で使う骨壷である。
沖縄の巨大な亀甲墓は私も見たことがある。
琉球の、死者に対する考え方は他のどの地方ともちがっているようで、
あの亀甲墓の中で死者を三年間そのままにしておくのだと聞く。
そののちあらためて骨壷に移すのだそうである。
ここにあるのはその骨壷で、
骨壷といっても小型の冷蔵庫ほどもある大きなものである。
琉球の家屋を模した丁寧な造りで
鬼瓦や鯱までちゃんとついている。
琉球独特の彩色が施されて焼き上げられた陶土壷で、その肌合いの
比類のない美しさが、おそらく濱田の心をとらえて離さなかったのであろう。
目についただけで七基ほどもあったが、
沖縄にいくたびに持ち帰ったものだろうか。
濱田窯で焼いたという陶器が並んでいたので
手ごろなぐい飲みの猪口を買ったのだが、
それにしてもこの益子の町の濱田庄司に対するあつかいはどうであろう。
駅員に道をたずねて
「わかんねえな」と無愛想にされたときにはさほどに驚きもしなかったが、
町なかをいけどもいけども案内板は「益子焼」のものばかり。
濱田庄司のハの字もない。駅でもらった極彩色の観光地図の説明にも
ただの一行も触れてない。
そういえばこの濱田の旧宅も益子参考館であって「濱田記念館」ではないのだ。
濱田が開いたにしても、呼び方くらいは変えられなかったのかと思ったりする。
思えば草深い田舎の、実用的な民芸品にすぎなかった益子焼を
世界に知らしめたのは濱田庄司である。
バーナード・リーチとの出会いやこの地での多くの芸術家との交遊は
中学の教科書にさえ載っていた。
第一私とて、濱田がいたのでなければ、
不便をおしてこんなとこまで来やしなかっただろう。
この町も、濱田の名前をもっと利用してよさそうなものだが、
それがそうではない。
まるっきり冷淡なのである。
考えてみると、東京っ子で東京高等工業学校(現東京工大)を出た
名高いエリート芸術家に、この町の人たちは、生前から決してよい感じを
持ってはいなかったのではないか。
むしろ「益子といえば濱田庄司」と言われることに、
特に在来の(地元の)芸術家たちはもしかしたら
激しい敵意をさえ抱いていたのではないだろうか。
濱田にとってここは戦場ではあっても、
心やすらぐ故郷ではなかったのかもしれない。
「同時代人は、その時代の才能に対して不寛容である」
と言った人がいたが、人間の心の奥のえもいえぬありように
いささか文化人類学的興味をもったことであった。
「マンリョウのそぞろに赤し濱田窯」(楊柳)