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2009年01月05日

蝋梅

「門松は冥途の旅の一里塚
めでたくもありめでたくもなし」(狂雲集)

一休禅師が元旦に詠んだとされる戯れ歌である。
いかにも一休さんらしい皮肉な言い回しであるが、
この悟達の禅僧も臨終の際には「死にとうない」とつぶやいたと言う。

正月には成田山にお参りすることにしている。
荘厳な本堂の裏手に、美しい森林公園が広がっていて、ここを散策するのが
参詣のときの楽しみである。
この時期には、深山幽谷を象った築山の斜面に、
よく手入れされた蝋梅が何本も花をつけていて
思わず足をとめてしまう。

この薄黄色の花芽の可憐さに魅かれて、3年ほど前に
蝋梅の苗木を庭に植えてみた。
しかしあとで聞くと、この木はたいへん気難しい植物らしく、
そう簡単には花をつけてくれないんだそうである。

「俺が生きてるあいだに咲いてくれるのかな」
などと、心細い話を家人としていたが、なんとこの冬を迎えてようやく
ツボミをいっぱいつけてくれた。
昨年新しく入ってもらった植木職人さんの腕が功を奏したのかもしれない。

中国古代の徽宗皇帝の名画「蝋梅山禽図(ろうばいさんきんず)」には
小さな鳥が蝋梅の小枝にとまっている姿が描かれている。
山禽というから、隼か鳶の類なのかもしれないが、
鶯のようにも見える。

わが家の庭にも鶯の夫婦が
毎年のようにやってくるのである。
休みの日などに観察していると、梅や木瓜の花の蜜を吸っているらしい。
ときには花弁そのものを食いちぎって飛び立ったりしている。
メジロのような鮮やかな色ではないが、
その、深い気品ある羽の色合いは、
古代から日本人が愛してやまなかったものである。

「...春な忘れそ」
などと言わなくったって、自然が春を忘れることはない。
こざかしい人間の思惑を超えて、
春が沈黙することはないのである。

考えてみれば、人間はいつも自然に様々な仕打ちを加えてきた。
しかし人間も自然の一部であってみれば、
そこでの、さまざまの営為はまた自然に回帰されるものであるはずだ。

世界には、季節が二種類くらいしかないところがざらにある。
春があってもほとんど数日というところもある。
私の先輩で、いつもドイツと往復している人がいて
「去年の夏は金曜日」という本を出した。

「去年の夏は何曜日だったかしら?」
「たしか、金曜日だったように思うけど...」
といった会話がよく交わされるんだそうである。

つまり北ドイツでは、夏が1日か2日くらいしかない、ということらしい。
まあ、そういうところに数世紀も棲みついている人々にとっては、
それが自然の動きなのだから、それはそれでいいのだろう。
日本のように四季が巡るという現象を見ていることだけが幸せだということには
ならないのかもしれない。

ただ、四季があるかどうかが、人の考え方に大きく影響することだけは
間違いないであろう。
千年紀で騒がれた「源氏物語」などは、
四季がなければ生まれなかった文学である。

いま庭で、蝋梅の周りを
きびきびと動いている鶯たちが、
はたして去年来ていた夫婦と同じなのかどうかはわからない。
しかしいつも同じ姿で、同じところを飛び回っているのをみていると
その生命の脈動の連鎖を感じるのである。

一休さんの言うように
元旦は、まちがいなく冥途の旅への里程標である。
しかしその旅の続いているあいだは、
生命の無窮を信じて、充実した時間を過ごしたいのである。