「サスペンダーの独り言」ホーム > 伊予みずき

2010年03月19日

伊予みずき

彼岸を過ぎて
伊予みずきの、黄色い小さな花が
いま満開である。
満開といっても、あでやかな紅白の梅花や
出番を待ち受けている桜の花たちとちがって
こちらはまことに可憐で愛くるしい。
いのちの息吹を強烈に自己主張するというのではなく
どこかはかなげでありながら、
くっきりとしたつよさを内面に秘めた美しさである。
庭を舞台とするならば
椿や梅、桜といった、主役になる花木ではないが、
そこにひっそりと咲いている姿を眺めていると
なくてはならないワキ役である。

先日、仕事で水道橋のあたりを歩いていて、
ふと「宝生能楽堂」に目が留まった。
入り口に例会の表示があるのをみながら
久々に、大鼓(おおかわ)の「ポン」という乾いた響きを聞いた
想いであった。


編集の若僧だった頃
宝生流の人間国宝、森茂好さんのご自宅にうかがったことがある。
いくら能楽好きとはいえ、怖いもの知らずにもほどがあるし、
口をきいていただいた「わんや書店」の社長さんにも
ずいぶんご迷惑をおかけしたと思う。

訪問の目的は、ご長男の常好さんの日常を取材することであった。
常好さんはその頃中学生になったばかりだったのだが、
下掛(しもがかり)宝生流の正系の流れを継ぐみごとな風格の父上に、
よく似た紅顔の美少年であった。
しかしさすがに栴檀(せんだん)は双葉より芳し、の言葉通り
能楽数百年の歴史がその幼な顔にもあらわれているのをみて
なにやら気圧されるものを感じたことをよく覚えている。

なにしろもう三十年以上も前の話なのだから、
そこで森父子とどんな会話を交わしたのか
あらかた忘れてしまった。
ひとつだけ記憶しているのは
私の生意気で半可通な質問に対して、この人間国宝が
馬鹿にした風もなく、淡々と能の真髄について語った次のような
言葉である。

「ほとんど何もないところで演ずるのですから、肉体をぎりぎり
まで鍛え上げていなければなりません。
能というのは鑑賞者の想像力を刺激しながら創り上げていくも
のです。だからお客さんのほうにもそれなりに高い質が求めら
れるのです」

取材の終わりには、父子で向き合いながら、朗々と謡っていた
だいた。たしか、「屋島」だったかと思う。
そのうえ「読んでみなさい」と、野上弥生子さんの著書までお貸
しいただいたのである。

今考えるともったいないような、また顔から火が出るような話で
あるが、おかげで能楽の芸術性が、心身のただひたすらな鍛錬
によって支えられているのだということを、
わずかながら、理屈でなく得心できたように思う。

最近家人が持ち帰った、能楽のプログラムをみていたら、
ワキ方に、森常好の名前があった。
最近はみていないが、十年以上前に「文部大臣賞」を授賞して
今や日本能楽界を代表する名人である。

下掛宝生流の謡曲は、ワキ方の謡である。
シテ方の謡とちがって、その直線的でのびやかな調子は
漱石、虚子など多くの文学者に愛されてきた。

能舞台もシテとワキで成り立つ。

庭の伊予みずきも
これから咲きそろう主役の花たちと
玄妙で優美な、春のハーモニーを奏でてほしいものだ。